2009年 12月 08日
むっちゃんと森美術館『医学と芸術展』に、またもや行って参りました。 今回はじっくりじっくり気になった作品を観てきました♪ アルヴィン.ザフラ『どこからでもない議論』 頭蓋骨をひたすら 紙ヤスリのキャンバスにこすりつけた作品 (10m近い長さ) 頭蓋骨が全てヤスリで削れるまで2週間擦り続けます。 これは、かなりショッキングでした。。。 その作業工程もビデオで観る事ができます。 私は柳澤桂子さんの『生きて死ぬ智慧』の世界だと感じました。 この世のもの全てが原子から成り立っていて 一つの物体も全て細かくしてしまえば、原子となり漂い どこからどこまでが自分なのか他人なのかモノなのか自然なのか... そんな世界感と非常にリンクしました。 彼のこの作品は、より原子に近づけた作品なんではないでしょうか そしてもう一つ ヴァルター.シェルス『ライフ.ビフォア.デス-ハイナ.シュミッツ』 写真作品 大きな写真の左右に同じ人物が顔のアップのみモノクロで2つ映っています。 この写真は左が生前の写真、右が死後直後の写真です。 このコーナーに来ると胸が締付けられ苦しくなります... それと共に、亡くなった方々の顔が非常に美しく、目を逸らす事は困難です これは、自分の中の宗教心からくる感情なのか... 私の場合、普段この人は美しい、と感じる瞬間は 外見だけでなく、意思や魂を通してみた感情が大きくプラスに作用します。 しかし、亡くなってしまった顔というのは 魂や意思は当然無い訳で... そんな時にむっちゃんが良いヒントをくれた。 普段、私が感じる事は『動的』つまり、動いている状態だから 感じる事が出来る訳で、被写体になった顔というのは 切り離された一瞬だから美しい 亡くなった方の顔を見て美しいと思うのは そこには意思や魂が勿論なく 自分の感情を投影する事も頑に拒否される つまり、想像出来ない投影出来ない世界 だから美しいと感じるのかもしれない (想像出来るって事は実体験があっての事 死というものは追体験など決して出来ないのだから) ヴァルター.シェルス『ライフ.ビフォア.デス-ハイナ.シュミッツ』解説より 「ある人は、あと少ししか生きる事ができない事を知りつつも より良い生を求め、また、ある人は死が全ての終わりではない事を信じて 病と闘いました。 死に対する恐怖や不安、そして同時にそこにある希望や悟りを この作品は私達に提示してくれます。」 『どこからでもない議論』と『ライフ.ビフォア.デス』はある意味 同じ問いかけをしているのではないでしょうか? 死が全ての終わりではない。。。
by naou7
| 2009-12-08 20:58
| アート
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